駅員さん

4時間目が終わって私達はいつもの窓際の席を陣取ってお弁当を広げていた。
とっても日差しが暖かく緩やかな風が吹き込んでいた。

私達は最近見かけたイケメンの駅員さんの話題で盛り上がっていた。

「もったいないよねぇ、駅員さんにしておくには。
ショップの店員とかでもいいんじゃない」

「メンズノンノのモデルでもいけるよ」

「でもさ、なにげ駅服もこなしてるよね」

「だよね」

みんな食べる口としゃべる口はまるで別にあるような勢いで楽しんでいた。


私はゆうべの家での話を口にした。

「あのね、昨日夕ご飯の時に駅員さんの話をうちのお母さんにしたんだ」

友達が一瞬箸を持つ手を止めて私を見た。

「あ、えっと、うちのお父さん駅員だからさ」


そして話を続けた。




・・・・・・・・母がまだ高校生の時の話・・・・・・・・

毎日使う駅に新しい駅員さんが現れて女子学生たちの注目を浴びていたの。
片手でカチャカチャとはさみを器用に動かして
切符を切るリズミカルな様子を私も友達もいつも遠くから見ていてね。
ある朝友達の一人が定期の期限が切れていることを指摘された事がきっかけで
「おはようございます」「さようなら」と
挨拶を交わすようになっていったんだけど、
いつもグループの一番最後について改札を通る私は恥ずかしくて
声を出せずただ黙って俯いて早足で通っていたのよ。
でね、当番で遅くなって帰りがひとりになった日にいつものように
改札の近くまで来るとあの駅員さんの姿がなくてがっかりして通り過ぎたらね、
目の前に私服の駅員さんが道を塞ぐように立っていてびっくり。

「みんなもう帰っちゃったね。当番だったんでしょ」って。

私、一瞬何がなんだかわからなくてね、キョトンとしてると

「先に帰った友達から聞いたんだ」だって。

それでね、こう言ったのよ。

「いつかこんな日が来ないかなって待っていたんだ。
僕は今日はもう帰れるんだけど……これって偶然じゃなく必然だから」

その駅員さん、今までの駅員さんとしての笑顔じゃない顔で笑ったの。
私が黙ってると照れくさそうに言うわけよ。

「ほら、君っていつもみんなの後について目立たなくって……だけどね、
 僕の中では君が一番目立ってたんだ」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「それでね、うちのお父さんとお母さんは結婚したんだって」

「きゃーーーマジでぇ」

「チョーうけるんですけどぉ」

「それってナンパじゃん」


友達の反応はさまざまだったし手を叩いて笑ってたけど
私は新しく出会ったあの駅員さんの顔を思い浮かべていた。

奇跡は2代続けて起こらないかしら……なんて。

2009/11/26 16:11 | 短編小説COMMENT(2)  TOP

高校2年ユリアの場合

「どうした?」

「うん、あのね、先生……定期落としちゃって帰れない」

「今どこだ」

「学校の前のバス停。お金持って来て。じゃ」

「おい、おい山田ぁ」

電話は一方的に切られてしまった。
仕方なく国語の教師の新谷治樹(しんたにはるき)は財布を掴んで職員室を出た。
山田ユリアから今日のような電話がよくかかってくるようになったのは
この夏休みが終わった辺りからだった。
教師を始めて4年目を迎えていた。


校門を出てすぐのバス停にはバスが行ったばかりなのか
山田ユリア以外の生徒の姿は見当たらなかった。

「せんせ〜来てくれたんだ。さんきゅ」

ユリアは新谷の腕にすがりついた。

「こら、よせ。職員室から見えるだろ」

狼狽する新谷の顔をユリアは嬉しそうに見上げていっそう力を込めてしがみついた。
新谷はそれを振り払おうとすればするほど人目にはじゃれあっているように
映ったに違い。
しばらくするとユリアは腕から離れて手を出した。

「先生、バス代」

見ると遠くにバスがこちらに向かっているのが見えた。

「ああ、ちゃんと返せよ」

新谷は500円玉を差し出された掌に乗せた。

「うん、じゃね。バイバイ」

ユリアは何事もなかったかのように開いたバスのステップをあがっていった。
新谷はしばらく窓ガラスを見上げていたがユリアが顔を覗かせて手を振る気配はなかった。
迷惑だと思いながらも新谷は肩透かしを食らったような気分で職員室へと戻って行った。


(何で俺なんだよ)新谷は不思議でならなかった。
担任でもない。顧問でもない。
隣のクラスの新谷に助けを求めてくるユリアの心の内がわからなかった。

しばらくするとまた新谷の携帯にユリアから電話がかかった。
誰に聞いたのかユリアは新谷の携帯番号を知っていたのだ。

「せんせ〜、助けて。バッグが木に引っかかって取れないの」

「おまえなぁ」言いかけて新谷は(担任に言えよ)という言葉を飲み込んだ。
「今どこだ。行ってやるから早く言え」

「2−Aの教室」

新谷は携帯を切ると階段を駆け上がった。

教室の入り口から中を覗くとユリアが今にも落ちそうなくらい窓の外へ
体を乗り出していた。
その手の先にはモップが握られていたが長さと重さでバランスを崩して
爪先立ちの足先がゆらゆらと揺れていた。

「危ない!」新谷は声と同時にユリアの腰を支えた。

ユリアは驚いて教室の床へとひっくり返った。

「もう、先生ったらセクハラだよ」

「ばかっ、呼んだのはおまえだろ」

「触ってなんて言って無いもん」

「そんなに乗り出したら危ないだろ。もう少しで落ちるところだったじゃないか。で、カバンはどこだ」

「カバンじゃないよ。バッグだも〜ん。おじさんみたい」

「どっちだって同じだよ。じゃ、そのバッグはどこなんだ」

「あそこ」ユリアは窓から下を指差した。

新谷が覗き込むとユリアも同じ窓枠から顔を出した。

「ほらあそこ」

指さした先にはたしかにユリアがいつも肩から下げている学生の流行のバッグが引っかかっていた。

「なんであんなところに落ちたんだ」

「・・・・・・・・」

「わざとか?俺を呼び出すため……」

言いかけた新谷の言葉をユリアがさえぎった。

「違うよ。違うって」

ユリアが涙声だったことに新谷は驚いて慌てて言った。

「ごめん、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。
でも俺担任じゃないし、何で俺なんだっていつも思ってたから」

「だって、先生言ったじゃん。転任してきた時に、誰でも困った時には声を掛けて欲しいって。
みんな俺の生徒だと思ってるって。そんなこと言ってくれる先生なんていなかったもん」

ユリアの涙声は変わっていなかった。

「先生、取ってよ」

涙声のユリアが新谷の背中に張り付いた。

「先生、取ってよ。助けてよ」

「助けて?」

新谷はふと思い当たった。
≪いじめられてるのか≫
定期をなくしたのではなく盗られた。
バッグを落としたんじゃなくて落とされた。
その前の土砂降りの日には傘が壊れたんじゃなくて壊された。
体操着を忘れたんじゃなくて隠された。
今までの助けては困っているから助けてじゃなくて
『いじめに気づいて』のSOSだんじゃないだろうか。

背中に張り付いて「助けてよ」とつぶやくユリアを正面に向き直らせて
新谷はかがんでユリアの顔を覗きこみ目を見て言った。

「山田、おまえ……いじめられてるのか」

ユリアはきゅっと唇を噛んで笑顔を作った。

「先生、気づくの遅すぎだよ」

「いつかスカート破れちゃったから洋服貸しってて言っただろ。
それで俺の着替えのジーパン貸してやった時」

言い終わらないうちにユリアが小さくチャチャを入れた。

「先生、ホントおじさん。ジーパンじゃなくてジーンズだよ」

「おまえなぁ。で、そのジーンズ貸した時も誰かに切られたのか?」

「うん」

「なんで言わなかった」

ユリアは新谷の胸に頭を預けて再び涙声で気持ちをぶつけた。

「気づいて欲しかったんだもん。先生の事好きだったから先生に助けてもらいたかった。
だからいじめられてたけどそれでも呼べは先生がスーパーマンみたいに
飛んできて助けてくれるってわかったから、先生がいつか自分で気づいてくれるまで
このままでもいいかなって思ったんだもん」

「おまえ」

「先生遅いよ」

「ごめん。もうわかったから俺が助けてやるから心配するな」

「先生遅いよ」

「だからごめんって」

「そうじゃないんだ。私転校する事になった。親が離婚する事になって
私はお父さんについて来月、北海道に行くの。最後に気づいてくれてありがとう」

「そうなのか、本当にごめんな」

「先生、最後のお願い。バッグ取ってね」

ユリアは新谷から離れて笑った。

「最後じゃないさ」

「え?」

「北海道で困ったら電話して来い。いつでも飛んで行って助けてやる。
俺は山田のスーパーマンだからな」

新谷はユリアの頬を両手で挟んで言った。

「先生、写真撮ろ」

ユリアはポケットから携帯を取り出すと
新谷の腕をとって片手を伸ばしてシャッターを押した。

「おい、見せろよ。あ〜これひどいだろ。もう1回」

今度は新谷がユリアの肩を抱いて携帯を構えるとユリアは両手でピースを差し出した。


ふたりの携帯の待受けにはおそろいのあの時の写真が笑っていた。
ちょっと照れた新谷と思いっきり笑顔のユリア。

新谷治樹27歳(ユリアに言わせるとおじさん)
山田ユリア17歳

禁断の教師と生徒の秋物語

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2009/11/22 00:48 | 短編小説COMMENT(6)  TOP

やすらぎの場所 15(完)

恭子は沙織が眠りにつくのを見届けると章太と共にマンションに戻った。
下から見上げると亨がいることが灯っている部屋の明かりでわかった。
これから話さなければならない章太とベランダで育んできた愛を思うと憂鬱であった。

「何かあったら呼んで」

章太は降りてきたエレベーターの中へと恭子の背中を押した。


部屋に入るとベランダ越しのカーテンが風に吹かれて揺れていた。
エアコンがかかっているのにそこだけまるで別の空間のように凍りついていた。
それは振り向いた亨の笑顔もであった。

「おかえり。沙織、たいしたことなくて良かったな。
こんなところから落ちたのにあれだけの怪我で済んだなんて。
きっと神様が可哀相なん女の子に救いの手を差し伸べてくれたんだな」

亨は冗談とも皮肉とも本気とも言えない表情で恭子に言った。

「何も聞かないの?どうしてこんなところに椅子があるのか、どうして仕切りが外れてるのか、
そして。・・・隣で何をしてたんだって」

「沙織は助かったんだ。もういい」

亨は投げ捨てるように言った。

「もういい?もういいって何?何がいいの?私のことを許してやろうって、そういうこと?」

「そういうわけじゃない。沙織がこんなことになって自分がやってきたことが
どんなに恭子や沙織に寂しい思いをさせていたのかやっとわかったんだ。
だから恭子のしたことはもういいって言ったんだ。全て俺が起こしたことだ。今まで悪かった。
恭子の孤独も辛さもわかってやれなくて、必要な時に何もしてやれなくて悪かったと思う。
沙織が退院してきたら3人でもう1度やり直そう。これからはちゃんと家族を守っていく。約束する。
だから恭子も沙織と俺のために綺麗でいて欲しい。ヤツなんかのためじゃなくて俺のために
前みたいに笑って欲しい」

恭子は部屋へ入ってきた亨と入れ替わりにベランダに出た。
真冬の風は偽りの無い心を恭子の胸へと吹き込んだ。

・・・章太くんが好き・・・

1番辛かった恭子をこのベランダで支えてくれたのは章太だ。
形振りかまえないほど疲れていた恭子を蘇らせてくれたのは章太の優しさだ。
必要な時に沙織のそばにいつもいたのは章太だ。暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、
風邪をひいて鼻水が止まらない日だって、お腹が痛い日だって、章太はずっとそばにいてくれた。
“だから章太くんが好き。これからの亨じゃなくて今までの章太くんが好きだから”恭子は決心をした。

恭子は窓を開け放して亨に言った。

「もう無理。章太くんが好き。沙織もきっと章太くんが好きだわ。
章太サンタに毎年会いたいって言うに決まってるわ」


恭子は亨にも章太にも聞こえるようにベランダの向こうの空に向かって言った。

「私は私。お母さんでも、奥さんでも無い。私は恭子よ。
だから章太くんが好きだという気持ちを大事にしたいの。
仕切りの無いベランダのように私は行きたいところへ行きたい時に行きたいの。
亨とやり直したら私はきっとまた籠の鳥になる。だから私は恭子を愛してくれた章太くんのそばで
恭子のままで生きたい」

恭子は言い終わると隣のベランダを覗き込んだ。
ベランダにはOKの目印の黄色いバンダナがしっかりと結ばれていた。

亨は開け放された窓からレースのカーテンが風に揺らめいた時に時々見せる恭子の後姿を
見つめていたが、それは自分の知っている恭子の後姿ではないような気がしていた。
亨はほんの少し余所見をしていた間に今までに見たことも無い美しい恭子と可愛い盛りの沙織を
失うことになってしまったことを今更ながら後悔していた。

ベランダ越しに手を差し伸べられてすがった温かな手を二度と離したくないと恭子は思った。

そして弱った心が羽を休める小さな止まり木が母でもなく妻でもなく女には必要であるということを
亨がわかっていたのなら小さな沙織が空を飛ばなくても済んだのだという現実だけが
恭子と亨が夫婦として最後に分かり合えたことであった。




恭子はベランダの取り外された仕切りを跨ぐと自分が手に入れたやすらぎの場所へと帰っていった。


                              
                           


                                    完

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2009/10/25 01:02 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 14

「お父さん、お母さん、娘さん気が疲れましたよ」

先ほどの看護師が呼びに来て章太は恭子を促した。亨は後から黙ってついて行った。
病室に入ると個室のベッドに沙織は寝かさせていた。
検査のために脱がされた衣類が床の透明なビニールの袋に入っているのが目に付いた。
ところどころ赤いシミが広がっていて、事の重大さをそれぞれが感じていた。
ベッドを覗き込むと沙織の細い腕から点滴の針が刺され、毛布から出た裸の肩に見える、
たぶん落ちたときに木々の枝に傷つけられたのであろう擦り傷が痛々しかった。

「ママ、ごめんなさい」

沙織は消え入りそうな声でやっと言った。

「沙織、ごめんなさいを言うのはママの方よ。恐い思いをさせてしまって・・・ママが悪かったわ」

沙織は亨の姿に目をとめると嬉しそうに微笑んで言った。

「パパ、サンタさんが来たの。沙織いい子にしてたからちゃんとプレゼントを持って来てくれたよ。
いっぱい遊んで楽しかった。パパが居なくても寂しくなかった。
ママがサンタさんに連れて行かれちゃったのかと思ってお外に出てみたの。
イスに上って下を覗いてたら・・・そしたら落っこちちゃった」

沙織は苦しそうにそれでも一生懸命に久しぶりに会った父親に話しかけた。

「沙織もうお話はおしまいだ。お話は治ってからにしようね。目をつぶって眠りなさい」

そう言うと亨は黙って病室から出て行ってしまった。
胸ポケットの携帯が微妙に揺れたのを恭子は見逃さなかった。
きっと尚美からの電話かメールであることは明らかだった。

廊下に出るとやはり亨は胸から携帯を取り出してメールをチェックしていた。

【娘さんいかがですか?ゆうべお帰りになればこんなことにならなかったのですね。
でも楽しかったです。ありがとうございました。でも終わりにしましょう・・・さようなら】

若い尚美は亨の身に起こっている家庭のいざこざは面倒くさい話であって、
巻き込まれることが嫌だったのだ。どうせ遊びのつもりの付き合いであった。
亨は返信しようにもさっき沙織が言った「パパが居なくても寂しくなかった」と言う言葉が
心に刺さって出来ずにいた。
亨は携帯をパカパカと開けたり閉めたりしながら壁にもたれて大きくため息をついた。

“パパがいなくても寂しくなかった”それは娘に父親の存在を拒否された悲しい言葉だった。
亨は今まで自分は恭子と何をしてきたのか、沙織のために何をしてきたのか、
病院の冷たい壁にもたれて考えた。
恭子が髪を振り乱して沙織の世話に明け暮れていたのは誰のためだ。
きりきりと俺を攻め立てて苛々していたのはなぜなんだ。
今じゃなくてなぜもっと早く考えてやらなかったのか。
沙織が落ちたのは恭子だけのせいではない。いやそうじゃない。
恭子のせいなんかじゃない。自分のせいだと亨は沙織のあの笑顔と言葉で思い知ったのであった。
亨は恭子と章太を残してマンションへと帰っていった。

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2009/10/25 00:57 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 13

「沙織を生んでから・・・」

亨が呟くように何かを言った。
章太は足を止めて振り向いた。それにつられて恭子も足を止めた。

「沙織を生んでから恭子は俺にかまわなくなった。そして女であることを忘れたように髪も気にせず、
化粧もせず、お洒落もしないでまるでその辺のおばさんのように毎日過ごしていただろ。
あんなに綺麗だった笑顔も見せなくなって眉間に皺を寄せて文句ばっかり言って・・・
そんなところへ帰りたいと思うか?男なら誰だってうんざりするだろ。
俺のために綺麗に着飾って笑ってくれる女がいいに決まっているだろ。
俺は恭子が嫌いになったわけじゃない。そんな恭子が嫌だっただけだ。
だからちょっと余所見をした。ただそれだけだ。沙織が嫌いになったわけじゃない。
家庭が煩わしかったわけじゃない。それを女のくせに浮気なんかしやがって」

最後の言葉が終わるか終わらないうちに章太は亨に走り寄るとおもいっきり亨の頬を殴り飛ばした。

「何がおばさんだよ。そんなふうにしたのは誰なんだよ。
一度だって“子育てご苦労様”って言ったことがあるのかよ。
“子供を見ていてやるから美容院に行って来いよ”って優しい言葉をかけたことがあるのかよ。
綺麗でいて欲しかったら協力してあげれば良かっただろ。それを言い訳ばかりしやがって。
小さな子供を抱えてどんなに大変な思いで育ててきたと思ってるんだ。ふざけるなよ」

「俺はちゃんと仕事をして金を渡して食うに困らないようにしてきたじゃないか。
家に居て子供を育てるのは妻としての務めだろ。家に帰ってきてまでどうしてそんなに
気を使わなきゃならないんだ。いい加減にしてくれよな。それに関係の無いおまえに
何でそんなこと言われなきゃならないんだ」

亨は殴られて切れた唇の端を手の甲で拭いながら不機嫌そうに言った。

「亨・・・私は不自由しないようにお金をくれることなんかよりも、私の話を聞いて欲しかっただけ。
辛い時に“辛かったね”って言って寄り添って欲しかっただけ。
あなたと沙織と一緒に楽しく時を過ごして笑顔がたくさん欲しかったの。
そうしたら私はもっともっと綺麗で居られた。
悲しみや辛さをいっぱいにした顔なんてしていなかったはずよ。
今の顔を見て。私はどう?綺麗でしょ?章太くんのおかげだわ。
あなたじゃなくて章太くんのおかげなのよ。
だからもう沙織にとっても私にとっても・・・あなたはいらない」

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2009/10/25 00:55 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 12

「お母さんですか。大丈夫ですよ。本当に運が良かった。
5階から落ちた子供が運ばれてくると連絡が入ったから覚悟はしていたんだが、
思ったより軽かった。落ちたときのショックで気を失っていたのが良かったのかもしれないな。
不自然に力が入らずに素直にふわっと落ちたのと、下に木が何本か生えていて丁度その枝が
クッションになって下まで落ちずにいたのが幸いしたんだ。本当に運が良い。
お母さんもお父さんももう2度とこんな恐い目に合わせないようにしっかりと見てあげてくださいよ。
子供の命は親が守らなくてどうするんですか。今回はこれで済んだから良かったものの
一歩間違えば命は無かった。後悔しきれない結果になっていたんですからね」

医者は恭子と章太に渋い顔と笑顔を使い分けながらそう話すと「良かった、良かった」と
歌うように言いながら廊下を曲がって白衣の後姿を揺らして行ってしまった。
恭子と章太はその後姿に涙を流しながら頭を下げた。

「ごめん、俺のせいで」

章太は顔を覆って泣いている恭子が見えるはずも無いのに頭を深々と下げて謝った。

「章太くんのせいじゃない。私がベランダに椅子を置きっぱなしにしたからそれを踏み台にして・・・
私を捜して・・・章太くんのせいなんかじゃないから」

恭子は子供のように泣きじゃくりながら首を横に振って章太の非を否定した。
その時、どこでどう調べたのか亨が後ろから声をかけてきた。

「おまえら」

そう言うと何も言わずに章太に殴りかかった。
それが早いか恭子は亨の振り上げた腕を掴んだ。

「帰って。来ないで。あなたこそ今まで何をしていたのよ」

恭子は叫んだ。それは静まり返った病院の廊下に木霊して恭子の心へと跳ね返ってきた。

「何やってたのよ、私」

恭子は亨への叫びを自分へも叫んでいた。

「ここに来る前に部屋へ寄ってきた。どういうことなんだ?
なんでベランダに椅子なんて置きっぱなしにしてあるんだ。
真冬なのにどうして沙織は窓の外へなんか出たんだ。どうして隣との防火壁が外れているんだ。
おまえ達は俺の留守の間にベランダから行き来していたのか。
いつだ!いつからだ?越してきた時からおまえは人の女房を誑かしたのか。
子供の病気を利用して・・・。え?何とか言えよ」

亨は恭子にではなく。章太に食ってかかった。
章太は黙っていた。自分が何か言うことで恭子の立場がまずくなってはいけないと思ったからだった。
自分は何を言われてもそれは事実だから甘んじて受け止めようと思っていた。

「あなたにそんな事を言う資格は無いわ。あなたは沙織が生まれてから何をしてくれたの?
私に何をしてくれた?大変なことは全部押しつけて一度だって労ってくれた事があった?悪い?
章太くんが好きよ。あなたなんかよりもずっとずっと沙織を大事にしてくれるわ。
私の話を聞いてくれるわ。いつだって辛い時にそばに居てくれる。
あなたが私以外の誰かを抱いている時も私が悲しくなかったのは章太くんのおかげよ。
いらない・・・もう沙織のそばにも私もそばにもあなたはいらない。あなたなんかいらない」

恭子はやっとそこまで一息に吐き出すと章太の腕をつかんで
「行こう」と沙織の待つ病室へと歩き出した。

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2009/10/25 00:53 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 11

「はい」

出ないと思っていた亨は思いがけずに1回で電話に出た。
その隣にはもちろん昨夜のクリスマスイブを一緒に過ごした尚美が横たわっていることは
安易に想像できた。
だからこそ恭子の電話に1度で出たのであろう。

「あなた、沙織がマンションのベランダから落ちて・・・」

「なんだと!沙織はどうした」

明らかに動揺した亨の声が携帯の小さな穴から聞こえてきた。

「今、救急車で病院に着いて治療室に入ったところ。
救急隊の人は命に別状は無いって言っているけど。今はわからない・・・」

「何をやってるんだ、おまえは!」

電話口で動転している亨に怒鳴られ、恭子は亨への感情が一気に胸を埋め尽くした。
亨は来なくてもいい。ここには来なくてもいい。来て欲しくない。
クリスマスイブを祝うことを楽しみにしていた沙織との約束を破って、
女と過ごしていた亨のその手で沙織を触って欲しくなかった。昨夜サンタの扮装で喜ばせ、
一緒に遊んでくれ笑顔のまま夢の中へとベッドへ運んでくれた章太と私がそばにいれば
その方が沙織だって幸せだ。上面だけ父親づらして欲しくなんか無いと恭子は思った。
待合室の椅子に座って自分に非があったと唇を噛み締めて悔やんでいる章太のほうが
ずっとずっと沙織のことを考えてくれている。亨なんか来なければいい。
電話なんかかけなければ良かった。恭子が章太の隣に腰を下ろすと章太は恭子の手をとって
「きっと大丈夫だから」と大きく頷いてみせた。恭子が欲しかった物がここにあった。
ベランダ越しに話をした隣の章太ではなく、優しくて招きをしてベッドへ誘う大人びた章太ではなく、
恭子を包んでくれる大きな手をした章太。沙織が生まれてからずっと置き去りにされた
女としての恭子を沙織と一緒に包んでくれる章太の大きな手がきっと欲しかったのだ。
亨と別れよう。そのことに気づかせてくれた沙織のためにも、
恭子はコンクリートの塊のような固い決心をして章太の手を強く握り返した。
章太はちょっと驚いて恭子を見たが恭子は目が合うとさっきの章太のように大きく頷いてみせた。

治療室のドアが開いて、移動用のベッドに乗せられた沙織が点滴に繋がれたまま運ばれてきた。
章太は恭子の手を繋いだままベッドのそばに駆け寄った。
「沙織」「沙織ちゃん」それぞれがそれぞれの呼び方で声をかけた。
年配の看護師が沙織の胸を揺すろうとした恭子を「眠っていますから」と制した。
ベッドが動き出すとその後から医者がタオルで手を拭いながら出てきた。

「先生、沙織はどうなんでしょう?助かりますか?どんな様子なんでしょう。先生」

恭子は白衣にすがるように立て続けに質問を投げかけた。

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2009/10/25 00:49 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 10

その晩、恭子はうっかりと夜明けまで章太の腕に抱かれたまま眠ってしまっていた。
いつも必ず夜中には部屋へ戻って自分のベッドで眠るようにしていたのに、
恭子はサンタになって沙織を喜ばせてくれた優しい章太にいつもより
激しく愛をねだった結果であった。

しかしドアが激しく叩かれる音がした。
微かに開けてある窓の外も心なしか賑やかだった。
しばらくは現実と夢の狭間朦朧としていたが、叩かれているドアが章太の部屋のものではな
く隣の自分の部屋のドアだということに気がついた。
恭子は散らばった衣類をものすごいスピードで身に付けベランダ越しに自分の部屋に戻ろうとした。
なぜなら隣には沙織がひとりで寝ているわけであんなに激しくドアを叩かれてしまっては
目が覚めてしまうと思ったからである。
けれどもベランダに出たところで恭子は全てを知ってしまった。外はすでに薄明るくなっていた。
何気なく覗き込んだ下にはたくさんの人垣に囲まれて声をかけられている沙織が
横たわっていたのであった。

「キャ―――――沙織がぁ―――――」

悲鳴に近い叫び声に章太は飛び出してきた。

「沙織が、沙織が・・・・・」

立ち上がれなくなった恭子を抱きかかえる様に章太は下へと急いだ。
ほんの少し前、沙織がベランダから転落するところを見た人がいるというのだ。
身を乗り出して外を覗いていた沙織が“あっ!”っと思った瞬間真っ逆さまに落ちてきたのだと言う。
急いでそばに駆け寄ると沙織は木々の植え込みの間にすっぽりと入り込んでいて、
識は無かったと言う。今は救急車の到着を待っているところだそうだ。
誰なのか問う余裕も無く恭子は沙織の手を取り抱き起こそうとした。
章太が動かさない方がいいからと恭子を引き離した。
待つ間もなく救急車は、けたたましいサイレンを鳴らして到着した。

「あそこから落ちたんですね」

救急隊員の質問に恭子の代わりに章太がうなずくと救急隊員は沙織が息をしていることを確かめて
脈を計り怪我の様子を確認して担架に乗せた。

「命に別状は無いと思いますがあれだけの高さから落ちているのですから
精密検査をしてみないことにはなんとも言えません」

そう言うと救急車の中へ沙織を運び込んだ。
恭子が乗り込み、後から章太も続いて乗り込んだ。

「恭子さん、きっと大丈夫ですよ」

車が走りだすと章太は恭子の肩を抱いて励ました。恭子は首を振って一生懸命に涙を堪えていた。

「お子さんが落ちた時の状況を教えてください」

救急隊員の一人が恭子に話しかけたが恭子は下を向いたまま答えられないでいた。

「すみません。彼女見ていないんです。気が付いたら落ちていて・・・」

章太が代わりに答えた。

「お父さんですか?」

隊員は怪訝そうに章太に聞いた。

「いいえ、隣人です」

章太の答えに隊員はいっそう怪訝な顔をした。

「沙織は、娘は大丈夫でしょうか?あんな高いところから落ちて命に別状は無いなんて・・・」

恭子はさっきから脈をとったり、息遣いを気にして酸素マスクを口にあてがったりしている
若い隊員の腕を掴んだ。

「今のところは・・・今病院では万全な体制で待ち受けてくれていますので、落ち着いてください」

若い隊員は沙織から目を離さずに言った。

「ママ・・ママ・・・」

その時意識を取り戻した沙織が小さな手を伸ばして恭子を探した。




「沙織ごめんね。頑張るのよ」

恭子はなかなか病院に到着しない救急車が、走っているのか止まっているのかわからないほど
ノロノロのスピードに感じて張り巡らせた目隠しの間から外を眺めた。
目に入ったのは前に章太に連れて来てもらった救急病院の赤いランプが点滅している
緊急の入り口であった。沙織が小さなベッドにくくりつけられて治療室に入ってしまうと
恭子はふいに亨に知らせることを忘れていることを思い出し、待合室の片隅で携帯のボタンを押した。

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2009/10/25 00:46 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 9

クリスマスイブの晩、亨から【悪いけど今夜は忙しくて帰れない】とメールが入った。
恭子は沙織とふたりで小さなツリーを飾って、ケーキを焼いてチキンを買って、
宅配のピザを注文して過ごそうとしていた。もちろんベランダには目印のバンダナを結んで。
沙織は何度か「パパは?」と聞いていたがやっぱり寂しいのだろうなと恭子は思った。
その時ベランダの窓をトントンと叩く音がして沙織が恭子よりも先に駆け寄ると
そこには赤い服を着たサンタがプレゼントを抱えて立っていた。
「メリークリスマス!沙織ちゃん」
プレゼント差し出された沙織はびっくりしながらも大喜びでサンタに抱きついた。
背高のっぽでやせっぽちのサンタだった。恭子は章太サンタに「はい、どうぞ」とワインを差し出した。
どうしても遊んで欲しいと章太サンタから沙織は離れなかった。
亨がいない寂しさをやはり感じていたのであろう。章太は恭子を見た。
恭子は章太サンタに笑顔で言った。

「お願いできるかしら、サンタさん」

章太は沙織にわからないように恭子へ片目をつぶってみせた。ひとしきり遊んだり、
ケーキを食べたりして相手をすると沙織は小さなあくびをして章太サンタにもたれて眠ってしまった。

「サンタさん、帰らないでね」

沙織の寝言にふたりは顔を見合わせて微笑んだ。暖かな空間であった。

「寝ちゃいましたね。可愛い・・・」

章太は赤い服のまま、隣で眠る沙織の寝顔を覗き込んでいる恭子に言った。

「隣に行く?」

章太が沙織をベッドへ運ぶと恭子はドアを閉めてベランダ越しに隣へと移っていった。
沙織の声が聞こえるように少しだけ窓を開けてカーテンを閉めた。

「ごめんなさい。プレゼントは用意していないの」

恭子は言った。

「俺も無いから」

章太は赤い服を脱ぎながら言った。

「まさか一緒にクリスマスイブを過ごせるなんて思っていなかったわ。嬉しかった」

「店でサンタの衣装を借りることになってさ、一着多く借りてもらったんだ。
もしかして亨さんが帰ってこなかったら沙織ちゃんが可哀相だなって思って」

「章太くん・・・」

「恭子さんも喜んでくれるかなぁなんてね」

章太はちょっと照れながら振り返った。

「うん、びっくりした。そして本当に嬉しかった」

恭子はサンタの衣装を脱いで章太に戻ったTシャツの胸に顔を埋めた。
それは恭子にとって、もう自然な行為であった。章太が好きだと改めて思った。
亨が帰ってこないことに今夜は感謝したいくらいだ。

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2009/10/25 00:42 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

やすらぎの場所 8

長い吐息をついてから章太はマルボロのメンソールをくわえて言った。

「ねぇ、恭子さん。亨さんのことどうして怒らないの?」

章太は恭子の旦那さんのことを恭子がそうしているように“亨さん”と呼んでいた。

「だって怒っていないもの」

恭子は章太の細い腕に頭を乗せて笑った。

「どうして?だって恭子さんにとって亨さんは必要な人なんでしょ?」

「前はね」

「今は?」

「いらない」

「なんで?」

恭子は答えの代わりに章太の口を塞いだ。

「あなたがいるからもう亨はいらないのよ」

恭子は章太の耳元で囁いた。

「じゃあ、捨てちゃえ」

冗談交じりに章太は笑った。
そうしてうつ伏せになって吸っていた煙草をもみ消すともう一度恭子を抱きしめた。

「もう帰らないと・・・」

恭子は沙織のことを思い出して散らばっている服を拾い集めた。




その日やっぱり亨は帰ってこなかった。
都内のホテルのラウンジで尚美と飲んだ後、
遅くなった言い訳をするのが面倒になってそのまま部屋をとって泊まってしまったのだ。
朝まで一緒にいるなんて初めてだと尚美は一人ではしゃいでいた。
亨にとって尚美は本気の相手ではなく、恭子が子育てに疲れている今だけの遊び相手であった。
もともと亨が恭子に惚れて結婚したのだ。自分の子供とはいえ子供中心の生活で、
おまけに恭子はなりふりかまわずすっかり母親の顔になってしまっていたのでは
帰っても安らぐ場所などないと亨は感じていたのである。
幸いデパートの男子社員は残業も多く、付き合いもあることを1番恭子が理解しているのをいいことに
甘い考えでいたのであった。恭子は今やデパートの店員ではなく
自分の妻だということを忘れていたのであった。妻というものは嗅覚がどれほど優れているか
気づく余地も無かった。恭子と違って尚美は素直で自分の誘いを喜んだし、
なによりも亨のために綺麗でいようとしてくれた。それが男にとってどれほど喜ばしいことか
尚美はわかっていた。
沙織のせいにばかりしていないで少しは自分のために鏡を覗いて欲しいものだと
亨は尚美に苦々しく告げていたから尚更であった。
結局、亨は育児がどれだけ大変なものか、恭子がどれだけ疲れているのかなんて
少しの思いやりも持ってはいなかったのだ。

「金沢さんは、奥さんのことを愛していないの?」

「愛しているさ、子供も可愛い」


大きく張られたガラス窓にもたれてワインを飲みながら亨は答えた。
ベッドに横たわったままの尚美の腰は細くくびれていた。

「帰らなくて良いの?」

尚美は立ち上がって裸のままガラス窓におでこをつけて亨と並んだ。
亨はその細く白い腰を抱き寄せて口に含んだワインを尚美の喉に流し込んだ。
亨は小さくむせた尚美の茶色くカールさせた髪を撫ぜながら、
どうせ疲れて眠ってしまっているだろう恭子を思った。
ささくれ立っていた恭子が今では女としてどれほど綺麗に輝いていて、
母親としても柔らかな笑顔を浮かべていることに気づかずにいる亨であった。
今の恭子は尚美の発する若さや可愛らしさなど比べ物にはならないほど美しかった。

「私よりも好き?」

尚美は上目使いで亨に聞いた。

「恭子を一番愛している。その次が尚美だ」

「二番かぁ」

尚美は拗ねたように尖らせた唇を亨の頬に近づけた。

「でもぉ・・・会っている時は一番にしてね」

尚美はとびきりの笑顔で亨の首に両手を回した。

「わかってるよ」

亨は尚美を抱き上げるとベッドへ運び、再び綺麗に盛り上がった胸に顔を埋めた。

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2009/10/25 00:37 | 短編小説COMMENT(0)  TOP

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